六世紀の終わりから七世紀の初め頃、中央では、より強固な中央主権国家の確立を目指し、新たな国つくりが始められた。越後においても、これと関連した動向がいくつかみられるようになるが、五、六世紀にはみられない大規模な村が現れることもその一例である。山畑遺跡の発掘調査により、その結果約30棟の竪穴住居が見つかっている。これらの竪穴住居は大半が七世紀前半のころのものである。五、六世紀には、竪穴式住居が数棟で構成される小規模な村が大半であり、このような大規模で集団的な背景を持つ村は七世紀に出現し、八世紀には増加する。山畑遺跡のような大規模な村が出現する背景には、従来の小規模な村の大幅な再編成があったものと考えられる。山畑遺跡のような大規模な村の発掘調査は現在のところ頸城平野に集中するが越後平野でも馬見坂遺跡、や大島橋遺跡や大橋遺跡などは、このような村となる可能性が高い。