分 布

列島規模で古墳の分布を見ると、越後平野の地域は、日本海沿岸における分布の北限に位置している。直接ヤマト政権の力がおよんだ北辺の地域である。この時期の特徴的な北陸東部系の土器は、越後のほかに、阿賀野川をさかのぼった会津、信濃川をさかのぼった北信濃、日本海をさらに北上した庄内にも分布している。そして会津、北信濃では北陸地方にも多い前方後方墳も築造されている。新天地を求めての入植かヤマト政権の直接的施策かわからないが、能登を中心とする北陸東部の集団がこれらの地域に進出した結果てせあろう。能登から200から400キロは離れ、しかも内陸に達するには、中継する場所が必要である。それが、越後平野である。信濃へは越後西南部の頸城平野を経由した可能性が高いが、律令政府が北日本へ進出する際の拠点としていた背景がみられる。

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