内水面交通

弥生時代末から古墳時代にかけての土器の形式からみると、越後平野におよんだ新しい文化は、能登などの北陸地方から日本海ルートによってもたらされた。外からの文物は広大な越後平野の玄関ともいうべき信濃川の河口に入り、そこから発達した河川、潟湖による内水面交通によって内陸各地に拡散した。南北に長い越後平野の交通の動脈は、信濃川の本流とその支流の西川である。この時期の越後平野の地域は、重要な産物である西日本で生産された鉄素材、鉄製品、日常生活にかかせない塩、そして大陸からの最新の技術や知識もすべて外部から得ていた。それらをもたらす人、そして情報が行き交う交通、流通上の拠点が緒立周辺である。首長はヤマト政権との関係を保ちながら、こうした活動を基盤にし成長したと考えられる。古墳時代の中期の五世紀ごろ、越後平野に古墳が造られなくなり、集落数も激減し、人々の活動は急激に衰えた。ヤマト政権の権力構造の変化もこの頃にあつたとされる。その影響が越後にもあった思われる。

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