鉄や塩などの生活に欠くことのできない物資は、西方から能登を経た後、一旦信濃川河口付近に集積され、そこから越後平野の各村や会津地方、長野県北部地方の村々にもたらされた可能性が高い。鉄や塩などの代替え品としては、米や毛皮、矢羽の素材としての鷹の羽などが考えられるが、これらの物資も、一旦信濃川河口付近に集積された後、西方へもたらされたであろう。そして営まれた村々は物資の運搬に際して、中核的な役割を担ったと考えられる。そして三世紀末には能登、中越、越後、会津では、畿内を中心とした日本海にほとんど遅れることなく、一斉に定形的な前方後円墳が出現する。能登から会津にかけての西日本と連なるこうした動きは、三世紀前半から能登から会津地方にかけて成立したネットワークを基盤として達成されたと思われる。